天地創造―14(神の国の一日と人間の世界の一日・2)

天地創造―13からの続きです。

まず、「天地創造一日24時間×六日説」について考えてみましょう。

天地創造一日24時間×六日説」というのは、文字通り創世記1章に記されている「一日」は私たち人間が定義している「一日24時間」

という単位、時間の概念です。創世記1章には創造の区切りとして末尾に「夕があり、朝があった。第一日」から「夕があり、朝があった。第六日」と記されていますから、私たち人間が定義している「一日24時間」という時間、単位で一日を区切って合計六日間で神は万物を創造された、という解釈論です。

(以降「天地創造一日24時間×六日説」を「一日24時間説」と記します)

一日24時間説の最大の根拠となっているものが『創世記1章1節から31節に書かれている「夕があり、朝があった。第一日。」の「一日(日)」は、へブル語でヨームと書かれており、これは、ほとんどの箇所で字義としては人間の世界の一日24時間の概念による一日の意味として使われています。ですから、創世記1:1~31を以って神は一日24時間×6日で万物を創られたのです』という論理です。しかし、この論理をそのまま創世記1:1~31に当てはめると、一つの大きな矛盾が生まれます。それは、太陽と月とその他の天体は創造の第四日に創られたのに、創造の第一日に「夕があり、朝があった。第一日。」という記述が物理的に合いません。合致しません。合理しません。ここの部分が、みなさんが聖書を初めて読み始めると必ずぶつかる意味不明な、わけの分からない、理解できない箇所です。「よし!今日からがんばって聖書を全部読むぞ!」と意気込むのですが、読み始めたらいきなり「なんじゃこりゃ!!!これはどうなっているんだよ!!!」と躓きます。それからなんかスッキリしないモヤモヤした思いでとりあえずここの箇所はスキップして聖書を読んでいくことになります。そして、一日24時間説では、この分からない部分を『神は創造第4日に太陽と月と天体を造りましたが、その前に創造の第1日に地球を照らす光を造りました。「光があれ。」というのは地球を照らす光のことです。そして、その光に照らされて地球が一周24時間で自転を始めたので、それを以って「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれています』という論理で「だから神は一日24時間×6日で万物を創られた」と主張します。ようするに、創世記1:5の記述を以て『この時点で地球の自転が始まったから「夕があり、朝があった。第一日。」と記述されています』と解釈されます。そして創世記1:3で神が「光があれ。」と仰せられて宇宙に発生した光は超自然的な光(シャカイナグローリー)であると主張します。

 

創世記1:3~5

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 

さて、「一日24時間説」と聖書の矛盾は「本当にこの時点で地球の自転が始まったのでしょうか?」という疑問です。「一日24時間説」では『だって4節に「神は光とやみとを区別された。」と書いてあり、続いて5節に「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」と書いてあるから、誰が考えてもこの時点で地球の自転が始まり、その結果、地球は光に照らされた昼の時間帯と暗闇の夜の時間帯ができて「一日24時間」という時間の概念が完成されたのに決まっています。末尾に「夕があり、朝があった。第一日。」と書かれているのは、ユダヤ民族特有の日没が一日の始まりであるという教えに沿ってそのように書かれたのです』と主張します。では、それならば、なぜ、神は第四日に「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。」と仰せられて太陽と月と星々を創られたのでしょうか?さらにはっきりと「しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられて、太陽、月、星々を創られた目的を語っておられます。

私が一番疑問に思うことは、みなさんが一番疑問に思うことは、「もし、創造の第一日に特定の場所に光が創られて地球の自転が始まったとするならば、なぜ、創造の第四日に太陽と月が創られた記述があるのでしょうか? しかも、具体的に、詳しく、リアルに書いてありますよね? ほんとうに創造の第一日に太陽のような光源が創られて地球の自転がはじまったとするならば、創造の第一日に

 

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

そして神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。

神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星々を造られた。

神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第一日。

 

と書かれると思いませんか? また、普通に考えれば、創造の第一日に太陽が創られた方が科学的に理屈が合いますよね? 「太陽が創られた後に、太陽の光と熱によって光合成が始まって地上に植物が生えた」その方が私たち人間の感覚からすれば何も問題なく単純に理解できますよね? でも、なぜか、分らないけど、太陽は創造の第四日に創られています。ある人は「太陽が無くても神なら地上に植物を生やすことができる。だって神は全知全能ですから」と言います。凄い信仰ですね、この人。イエス・キリストはある時『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。』と言われましたから、この人が祈れば富士山が太平洋に沈むのでしょうね。中には、「著者が順番を間違えて書いただけのことです」と言っている牧師が居たのには驚きました。「この牧師、本当に救われているのかよ???」と思いました。別に救われていなくても聖書を研究して語ることはできますからね。

この疑問を解く鍵が、同じ創世記1章に書かれています。答えが書いてあります。

 

神はいい加減な方ではありません。訳の分からないことを仰せられる方ではありません。きちんと筋の通った論理を語るお方です。

 

みなさん、よく聖書を読んでください。一つ一つの御言葉を吟味してください。

 

創世記1:1~5

1:1 初めに、神が天と地を創造した。

1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 

神が創造第一日で最初に行われたことは、大水の上にある「やみ」の世界に光を創り、放たれことです。そしてここで創られた光は、ヨハネが御霊によって見せられた「神の国の光」です。

 

ヨハネの黙示録21:22~25

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。

21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

 

太陽の光でもありません。月の光でもありません。都を照らす神の栄光の光です。都を照らす子羊イエス・キリストのあかりです。神の栄光の光、子羊のあかりとは、すなわち「シャカイナグローリー」です。

 

ヨハネ福音書1:1~8

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。

1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 

やみの中に輝いている光、やみが打ち勝ことができない光、すべての人を照らすそのまことの光が、「シャカイナグローリー」です。

 

使徒の働き9:1~6

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、

9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。

9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。

9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。

 

サウロを巡り照らした天からの光が、「シャカイナグローリー」です。

 

創世記1:3~4

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

 

神は初めに「光があれ。」と命令して闇の勢力サタンが支配する「地」なる領域、空間に御自身の栄光の光(シャカイナグローリー)で満たしました。そして次に、光とやみを区別されました。「区別された。」というのは、「物理的な光の性質とやみの性質を区別して定義された」ということです。すなわち光は実体があってやみは実体がありません。つまり、闇の存在であるサタンを無に帰する存在とされました。無き者とされました。だからヨハネ福音書の冒頭で「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と言って光とやみの定義をしました。「やみはこれに打ち勝たなかった。」と書いてあるのは、闇の勢力なるサタンの世界に神の栄光の光が放たれので、サタンは神の栄光の光に戦いを挑んでいます。抵抗しています。しかし闇の勢力は光に勝つことができません。なぜなら、神が光と闇を区別さてたからです。光に対して闇を無に帰する存在とされたからです。

 

創造第一日の創世記1章4節、5節における光の創造は、暗闇の世界に神の栄光の光を放ち、光とやみを区別して、それぞれ光とやみの物理的な定義されました。ここまでが創世記1章4節、5節の光の創造です。神は暗闇に覆われた「地」なる領域、空間に神の国の都を照らす「シャカイナグローリー」の片鱗を現しました。

そして創造第四日に「光る物」を創造されました。「光」と「光る物」とはまったく意味が違います。「光(シャカイナグローリー)」は永遠に輝き続けます。しかし「光る物」は時が来れば消え去ります。ヨハネはその光景を御霊によって見せられました。

 

ヨハネの黙示録

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 

ヨハネの黙示録21:22~25

 21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。

 21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。

 21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

 21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

 

くり返し申し上げているように、「以前の天と以前の地」は、今現在私たち人間が住んでいる創造第四日に創られた太陽と月と無数の星々に囲まれた「地」なる場所、領域、世界です。新しい天と地は神の栄光の光であるシャカイナグローリーが永遠に輝き続ける世界です。

 

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
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天地創造―13(神の国の一日と人間の世界の一日・1)

天地創造―12からの続きです。

次に、創世記1章に書かれている天地創造の「一日」について考えてみましょう。

創世記1章を読んでお分かりのように、神は「一日」という時間、区切り、単位を以て六日間で万物を創造されて、第七日目になされていたすべての業(わざ)の完成を告げられてから万物のすべての創造の業を休まれました。ここで必ず議論されるのが「創世記1章に書かれている神の天地創造の末尾に記されている『日』とは私たち人間の世界の時間の単位である一日24時間を指すのか?」いう疑問です。そこで創世記1章に書かれている神による天地創造の「日」について考えてみましょう。ヨハネの黙示録に次の記述があります。

ヨハネの黙示録21:22~27
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

ヨハネの黙示録22:5
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

さて、みなさんは、ヨハネによるこの記述から何を感じたでしょうか? 何を思ったでしょうか?
ヨハネの黙示録21章に書かれている世界は、ヨハネの黙示録21章1節に書いてある通り「新しい天と新しい地」です。

ヨハネの黙示録21:1
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

神が人間のために用意された神の世界、神の国です。私たち人間が今存在している世界は「古い天と古い地」です。「以前の天と、以前の地」です。罪の下に在る「古い天と古い地」は、やがて消え去り、神は人間のために「新しい天と新しい地」を用意されました。「新しい天と新しい地」は「古い天と古い地」に対する表現ですが、元々神の国には太陽も月も夜もやみも存在しません。太陽も月も夜もやみも存在しない神の国の中に、神は人間のために「新しい天と新しい地」を設けられました。現在私たちが存在している世界は「古い天と古い地」です。「古い天」とは「やみの勢力であるサタンが支配する霊的な世界」です。だから創世記1:2に「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」と書かれています。「古い地」とはアダムの罪によって呪われた物理的な地上の世界です。私たち人間が存在している地上の世界です。創世記3:17に記されているアダムの罪によってもたらされた「のろわれた地上の世界」です。この「のろい」については後で詳しく解説します。

創世記3:17~19
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

この「古い天と古い地」が、創世記1:1に書かれている「天と地」です。

創世記1:1
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

この「古い天と古い地」は、やがて消え去り、いのちの書に名が記されている者たちのために、神は「新しい天と新しい地」を用意されました。そして、ヨハネの黙示録21章25節に「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」と書かれています。ここに書かれている「一日中」とは、字義としてはギリシャ語で文字通り「一日24時間」の一日です。では、ヨハネが見た新しい天と新しい地は、地球の自転周期である「一日24時間」という時間で区切られているのでしょうか? 神の国は「一日24時間」という日の単位がズ~~~と、永遠に続いているのでしょうか? ヨハネの黙示録全体を読みながら、ここに書かれている「一日中」の時間の概念をじっくり考えてみてください。
字義としては「一日24時間」という人間の時間の概念のギリシャ語で書かれていますが、まず、ほとんどの方は、直感的に、「この一日は人間の世界の24時間じゃないよね」と思われるのでないでしょうか? そして、ヨハネの黙示録21:23に「都には、これを照らす太陽も月もいらない。」と書かれていますから、新しい天と新しい地には太陽と月は存在しません。また、ヨハネの黙示録21:25には「夜がないからである」と書かれています。「夜がない」とはどういうことでしょうか? 理解できますか? 
ですから、新しい天と新しい地は、太陽も、月も、夜も、存在しない神の世界です。つまり、私たち人間が今存在している霊の世界、物理の世界とは全く次元の異なる世界です。
結論として、ここでヨハネが指している「一日中」の「一日」とは、字義としてはギリシャ語の一日24時間の一日の意味ですが、その実質は、一日24時間の一日でないことは明白です。人間のものさしと神のものさしは次元が違います。そして、

ここにヨハネが書いた「太陽」が、創世記1:16に書かれている昼をつかさどらせた「大きいほうの光る物」です。
ここにヨハネが書いた「月」が、創世記1:16に書かれている夜をつかさどらせた「小さいほうの光る物」です。
ここにヨハネが書いた「夜」が、創世記1:5に書かれている「やみを夜と名づけた」の「夜」です。

お分かりいただけるでしょうか? もちろんへブル語とギリシャ語の違いはありますが、言葉の意味は創世記1章に書かれている同じ太陽と月と夜を指していることは聖書を読めば理解できることです。さらに、新改訳聖書ヨハネの黙示録21:23の欄外注に引用句としてイザヤ書60:19~20が注記されています。イザヤ書60:19~20には次のように書かれています。

イザヤ書60:19~20
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

イザヤ書60:19~20とヨハネの黙示録21:23〜25を読み比べてください。

イザヤ書60:19~20
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、【主】があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。【主】があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

ヨハネの黙示録21:23〜25
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
21:25 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

どうですか? ピッタリ合いましたね。イザヤの預言に対して、それを裏付ける答えが、ヨハネの黙示録に書いてあります。つまり、イザヤの預言は来たるべき現実となる新しい天と新しい地を、人間が存在している物理的な世界を通して描写した言葉です。お分かりいただけますよね? ほんの一例としてイザヤ書ヨハネの黙示録の記述を引用しましたが、聖書は旧約聖書新約聖書が常にリンクしています。旧約時代と新約時代は表裏一体の関係にあります。
そして創世記1:5で神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられました。これは、光をはじめ万物の著作権、所有権はすべて神に有ることを示すのと同時に、もう一つの意味があります。それは、ヨハネが見て記録したように、神の国には物理的な太陽がありません。暗闇がありません。夜がありません。
ですから、本来、神がこれから創ろうとした創世記1:1の「天と地」は暗闇がありませんでした。ところがその「地」なる場所に闇であるサタンが逃げ込んで来たので、地は暗闇で覆われました。だから創世記1:2に「・・・やみが大水の上にあり・・・」と書かれています。そして、その暗闇(サタン)と対峙する象徴として、光を創り、神は光と闇を区別されました。
一般に、人間の世界では「昼」は太陽の光に照らされている時間帯を指し、「夜」は太陽の光が照らされない暗闇の時間帯を指します。つまり昼と夜は「時間帯」を表します。しかし神の国には太陽も、月も、昼も、夜もありませんから、私たち人間の世界における「時間の概念」がありません。そこで、人間が住む「地」なる場所に「時間の概念」を創る必要がありました。だから、神は光に「昼」という名を付けて、闇に「夜」という名を付けて、創世記1:14~18で物理的な太陽と月を創り、人間のために「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」という目的で地球の自転と公転による時間の概念を創りました。つまり、神が光に「昼」、闇に「夜」と名前を付けたのは、時間の概念が無い神の国に対して人間が住む「地」なる場所に「時間の概念」を創る必要があったからです。人間の世界における時間の概念を創るために、神は創世記1:14~18で「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。」と言って太陽と月を創り、地球を照らすように宇宙空間に置きました。
以上のことを踏まえながら、ですから創世記1章1節に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」の「天」は、ヨハネの黙示録ヨハネが見て記録した「古い天」のことを指します。ヨハネの黙示録21:1に記されている「以前の天」です。そして創世記1章1節に書かれている「地」とは、神の国(霊の世界)と対比された宇宙、地球も含めた「物理的な地上の世界」のことです。ヨハネの黙示録21:1に書かれている「以前の地」です。よく、誤解されて解釈され易いのですが、「初めに、神が天と地を創造した。」の「天」は、物理的な宇宙や地球の大空ではありません。詩篇19章1節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」と書かれているように、「天」は神の国、神の世界、霊的な世界を表しています。「大空」は物理的な地上の世界の空間を表しています。聖書は「天」という言葉を霊的な世界、神の国、物理的な宇宙、地球の大空といったように複数の意味で使われているので注意しないと混乱して意味不明な解釈が生まれます。
そして、創世記1章に書かれている神の天地創造は、ヨハネの黙示録に書かれている神の国(天)の中心に座したもう神の目線から見た神御自身による万物の創造の経緯が記された記録です。ですから、初めの創世記から終わりのヨハネの黙示録に至るまで、聖書は霊に感じて聖霊によらなければ正確に理解することはできません。
さて、では、創世記1章に書かれている「夕があり、朝があった。第一日。」の「一日」とは、「人間の世界の一日24時間の一日」なのでしょうか? それとも、ヨハネの黙示録に書かれている「神の国の一日」なのでしょうか? 

次回に続く
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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
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天地創造―12(神が描かれた人体の設計図)

天地創造―11からの続きです。

創世記1章に記されている人の創造は、人間の「魂」の創造です。そして2章に記されている人の創造は、人間の「体」の創造です。人間の体の創造について、ダビデ詩篇で詠っています。
詩篇139篇に次の記述があります。

新改訳聖書 詩篇139篇13~16
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

これは、ダビデよる神への賛歌です。13節に「私を組み立てられたからです。」と書かれています。「組み立てられた」とは、母の胎内で細胞分裂によって目、鼻、口、耳、脳、心臓、内臓といった、人体を構成するすべての器官が造られていく過程を表しています。そしてダビデの体は神によって組み立てられたのですから、組み立てる器官と、何と何を組み合わせて、どれとどれをつなぎ合わせて、どのような手順で組み立てていくのかという神が人間を組み立てるための論理、ロジックが存在します。そして15節に「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」と書かれています。ここに書かれている「地の深い所で仕組まれたとき」の「仕組まれた」という言葉は、口語訳聖書では「つづり合わされた」と翻訳され、新共同訳聖書では「織りなされた」と翻訳されていますが、ヘブル語原典では「刺繍された」「刺繍するもの」という言葉が使われています。へブル語の「刺繍された」という言葉を、新改訳聖書は「仕組まれた」、口語訳聖書は「つづりあわされた」、新共同訳聖書は「織りなされた」と翻訳しました。私の感性ではこの箇所だけを取れば口語訳聖書の「つづり合わされた」あるいは新共同訳聖書の「織りなされた」という表現の方がより具体的で的を得た(的を射る)翻訳です。刺繍の意味は

刺繍(ししゅう、英: Embroidery)とは、布や革の上に刺繍糸と刺繍針を使用して装飾を施す技術。「刺繍する」というように装飾する作業や完成した模様・文字を指すこともある[1]。プリントなどに比べて立体感がある分、製造に手間がかかるため、完成品は高価になる。
出典元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典
最終更新 2018年1月24日 (水) 23:35

つまり、それぞれの素材を用いてある世界(装飾)をデザインすることです。口語訳聖書と新共同訳聖書の訳文です。

【口語訳聖書】詩編139:13~16
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。

【新共同訳聖書】詩編139:13~16
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。

口語訳聖書の「つづり(綴り)」とは「つなぎ合わせる」という意味です。地の深いところでつづり合わされました。地の深いところで何がつづり合わされたのでしょうか? 答えは「遺伝子」です。二重らせんを鎖のように繋いでいるDNAの遺伝情報がつづり合わされました。二重らせんの遺伝子には「遺伝情報」が刺繍されています。デザインされています。設計されています。面白いですね。DNAが繋いでいる二重らせんは長い糸状になっていて、その糸状のDNAがヒストンと呼ばれるたんぱく質に巻きつきながら折りたたまれたものが染色体です。その染色体が細胞の中に核として収まっています。ですから染色体の二重らせんの糸を引っ張り出していくと、糸の所々に遺伝情報を構成するDNAがデザインされています。そして一般の糸は強度を増すために複数の繊維をねじり合わせます。DNAが鎖のように繋がっている二重らせんも二本の繊維をねじり合わせるような構造で、しかも二重らせんがDNAを複製するのに合理的な構造となっています。

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遺伝子
出典元
Wikimedia Commons/File:Gene.png

この二重らせんの糸によって人体が刺繍されていきます。「目と鼻と口はここの位置に縫い付けて、心臓と内臓はこの場所に」という感じで。そしてエッサイとダビデの母親の遺伝子がつづり合わされた時から、織りなされた時から、母の胎内でダビデの体の創造が始まりました。
実は、聖書にはダビデの母の名が書かれていません。イスラエルの歴史で一番名を上げたダビデ王の母親が誰なのか? 聖書には書いてありません。しかしサウルの言葉やダビデ自身の言葉から、ダビデはエッサイの不義の子として、不倫の子として、生まれてきたようです。当のダビデ自身も、不倫をして女の夫を戦場で殺しました。現代なら不倫であろうが何であろうがDNA検査で誰の子なのかほぼ特定できます。話しを戻します。
その前の「わたしが隠れた所で造られ」と書かれている箇所が、遺伝情報を構成している「DNA」です。「わたしが隠れた所で造られ」とは「母の胎内で造られ」という意味ではありません。遺伝子を構成しているDNAによる塩基の配列による情報です。それは後のダビデの言葉から分ってきます。そしてDNAが人間の形をしているわけではありません。DNAはこれから人間の体を形造るたんぱく質を造るための塩基の配列による情報です。DNAによる塩基の配列によってアミノ酸が造られて、さらに造られたアミノ酸の種類によってそれぞれ働きが異なるたんぱく質による細胞が造られていき、60兆の細胞による人間の体が造られていきます。「わたしが隠れた所で造られ」の「隠れた所」とは、ダビデの姿形(すがたかたち)が見えない世界です。新共同訳聖書では「秘められたところでわたしは造られ」と翻訳されています。人間の姿形が見えない所で、人間の姿形が造られていきます。すなわち人間の姿形ではない「遺伝情報」によって、人間の姿形が造られていきます。ですからDNA(塩基)による「遺伝情報」とは、「生命を造るための情報」すなわち「生命を造るために暗号化された(隠れたところ・秘められたところ)ソフトウェア(命令・手順・定義)」という、神が創られた「生命遺伝の概念」です。

「わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。」

遺伝情報によって、母の胎内でダビデの姿形(命の骨格)が造られていくのを神は見ておられます。
新改訳聖書に戻って、さらに16節に「あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」と書かれています。

139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、
書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

「胎児」と書かれていますが、ここで言っている「胎児」とは、両親の遺伝子の結合(受精)から始まって母の胎内で細胞分裂を経て人間として形造られるまでの一連の流れを指します。私たち人間の顔や体格や体質は両親の遺伝子で決まります。そして「あなたの書物」とは、すなわち「ゲノム」です。「人体の設計図」が編集されている書物です。
生命科学の世界ではゲノムは「人体の設計図であるすべての遺伝情報が記述されている書物」として譬えられます。実際に人類はヒトゲノムを解読してすべての遺伝情報を紙に印刷してファイルとしてまとめました。

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解読された全ヒトゲノムの上製本
出典元
Wikimedia Commons/File:Wellcome genome bookcase.png/Russ London

ゲノムの中に人間の体を構成する目、鼻、口、耳、脳、心臓、内臓などすべての器官の核となる遺伝子が「人体の設計図」としてデザインされています。刺繍されています。先に書きましたが、人の体は人の魂に合わせて神がデザインして着せた「衣」なのです。人間の本質は物理的な「体」ではなく目に見えない人格である「魂」にあります。人間は神によって創られたので、本能的に神の真似をします。神の天地創造の工程を踏襲します。神が人の魂に着せる「体」を60兆の細胞の核である遺伝子を糸で刺繍して完成させたように、人間も繊維をつづり合わせた糸によって洋服をデザインして完成させます。さらに「私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」と書かれています。「私のために作られた日々」とは、母の胎内で自分の姿形が造られていく過程、時間、日数です。ですからそれに続く「しかも、その一日もないうちに。」とは、「(物理的な)私が存在する前」という意味です。「受精する前」という意味です。つまり、私(ダビデ)がこの世に誕生する前に、すでに、物理的な私を構成する要素、因子(遺伝子・DNA・ゲノム)がすでに存在していて、その要素、因子を造られたのは神ですから、神はダビデが生まれる前にすでにダビデの存在を知っておられた、ということです。ダビデの体を構成する要素、因子とは、すなわち両親の遺伝子です。父親エッサイと母親の遺伝子の結合によってダビデは誕生しました。みなさんの存在も、神はみなさんが存在する前にすでに御存知でした。みなさんの両親が結婚した時点で、必然的に両親の遺伝子によってみなさんがどのような顔と体格と体質で、どのような性格を持ってこの世に誕生するかを神は知っています。さらに遡って、おじいちゃんおばちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんと、ず~~~と遡ればノアとその家族に辿りつき、最後は人類の初めであるアダムとエバに辿りつきます。七千年前のアダムとエバの遺伝情報が七千年の時を経て何代もの人々によって現代の私たちにコピーされて受け継がれてきました。聖書にはよく「系図」が書かれています。マタイの福音書の冒頭にはイエス・キリストから遡ってアブラハムまでの系図が書かれています。ただ、イエス・キリストはヨセフの婚約者マリヤより聖霊によって身重になって生まれた方ですから、一般の私たち人間とは妊娠の状況が異なります。
そして、現代科学によってDNA・遺伝子・ゲノムの存在が明らかになり、本来、神の領域である「隠れたところ」「秘められたところ」に人類が侵入して来ました。「医療」と称して、「治療」と称して、人工授精、体外受精出生前診断、ゲノム編集へと突き進み、生命への畏れ、倫理が失われていきます。人間が形造られる前の「遺伝情報」によって命の選別がなされ、不具合で必要のない命は葬られていきます。人間が形造られる前の「遺伝情報」を操作することによって、人間の先天的な病気や障害を予防する研究がなされていきます。大丈夫なのでしょうか? こんなことしても。もし、遺伝子操作で生まれてきた子どもに問題が見つかったら、誰が責任を取るのでしょう
か??? 今や17人に一人は体外受精で生まれた赤ちゃんだそうです。170人の赤ちゃんが居れば10人、1700人の赤ちゃんが居れば100人の赤ちゃんが体外受精で生まれたことになります。しかも、体外受精で生まれた赤ちゃんの8割近くが凍結保存された受精卵だそうです。凄い時代になりましたね。近い将来には遺伝子操作による「男女の産み分け」も当たり前の時代がくるのでしょう。人間の世界の「倫理」は有って無いようなものです。「赤信号、みんなで渡れば青信号」の世界です。いよいよ生命科学も「なんでも有り」の世界に突入していきます。「なんでもいいじゃん!子どもが欲しい夫婦に生命科学によって子どもができてハッピーになれば!」というノリで神が定義されたいのちの定義がなし崩しにされていきます。
私は何も生命科学が悪いと言っているのではありません。ips細胞などの応用による再生医療によって目の見えない人が見えるようになれば、喜ばしいことです。もし私の知り合いがクリスチャンでなくてもips細胞によって目が見えるようになったり何かの病気から解放されたら私は心から一緒に喜びます。病気や障害による苦しさを私も経験していますから、「あの苦しみから解放されて良かった」と心からうれしいです。ですから生命科学に携わっている研究者の方々にはどんどん研究して下さいと言いたいです。ただし、研究の中に「命に対する畏れの念」を忘れないで欲しいのです。「生命倫理」という、神の領域には絶対踏み込んで欲しくないのです。「人間の領域はここまで」という一線を引いて欲しいのです。なぜなら命は神が創られたものだからです。そして、どんなに不自由な体が自由な体になったとしても、それは「魂の救い」ではありません。
人間遅かれ早かれ時がくれば「死」がやってきます。「あなたは五体満足でお金にも困らず不自由のない幸せな人生を過ごしてきたかもしれないけど、死んだら、あなたはどこへ行くのですか?」と問いたいのです。
私は小学生の頃から科学にとても興味がありました。だから国語と理科だけは点数が良かったです。そのせいか、クリスチャンになってから「聖書を通して科学の世界を見る感覚」が自然と養われました。聖書を読んでいてもついつい科学的な思考で聖書を考える癖があります。科学や物理に携わるクリスチャンの方々は私以上に科学、物理の世界を知っておられるのですから、聖書を読みながら御自分の研究を人々の魂の救いにつなげて欲しいのです。研究者の方々は研究者として神に召されたのですから、常に研究を通して神を証して人々の魂の救いにつなげて欲しいのです。同じ病院で新しい命の誕生を喜びながら、一方でこの世で産声をあげることもできずに途中で人の手によって閉ざされる命が現実に存在します。「命は尊い」と叫びながら、一方で「望まない妊娠」とか「経済的に育てていけない」とか、人間の勝手な都合で新しい命が閉ざされていきます。神による命の定義がなし崩しにされていきます。神は天地創造で「いのちの世界」を創られました。そして神が創られたいのちの世界に私たち人間は置かれました。そのいのちの世界に神が居なければ、いのちは単なる「物」でしかありません。「動く物体」でしかありません。だから私たち人間はいのちを単なる「物」として、「動く物体」として、「喋る物体」として、取り扱います。

新改訳聖書 詩篇139篇13~16
139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

今から三千年前のダビデの時代に、DNAや遺伝子、ゲノムの存在なんてもちろん分かりませんでした。しかし、現代科学と符合する事柄を三千年前のダビデ詩篇で詠っています。ダビデはどのような意識で詩篇を詠ったのでしょうか? おそらく、御霊に感じて「想像しながら」詠ったのでしょう。ダビデは常に神と会話をした人です。
ですから御霊に感じたことを、思考の世界に浮かんだことを、「想像しながら」詠ったのでしょう。目で見て確認することはできないけど、実際に見ることはできないけど、御霊によって思考の世界に思い浮かんだ生命の世界を想像して詩を詠ったのでしょう。
よく考えてみれば、単純に神を賛美するなら詩篇139篇13~16は次のように詠われれば良いことです。

それはあなたが私を母の胎のうちで造られたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
あなたは私のすべてを知っておられます。

しかし「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」とか、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」とか、「私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」といったように、妄想だか戯言だか何だか訳の分からない意味不明なことをダビデはゴチョゴチョ詠っています。私たちは聖書を読んでいて訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所は分かったような分からないような感覚で読み流していきますが、実は、訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所に、聖書の真理が隠されています。神の言葉は一点一画も廃ることはありません。訳の分からない意味不明なゴチョゴチョした箇所も含めて、聖書は「神の言葉」です。
もし、ダビデが現代に生まれて詩篇139篇を学会やNatureで発表したならば、ダビデノーベル賞を頂いたかもしれません。(笑)
人類の終わりに向かって科学が進めば進むほど、科学による聖書の真理と事実が解き明かされていきます。科学と聖書が符合していきます。重なっていきます。聖書の真実が、科学によって解き明かされていきます。科学、物理に携わる研究者の皆様へ、ぜひ、科学によって聖書の言葉をどんどん解き明かして下さい。期待しています。

「科学とは、神の言葉である聖書の文字をなぞることである。」

次回に続く
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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
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天地創造―11(万物のソフトをプログラミングする神)

天地創造―10からの続きです。

みなさんは創世記1:1~2:3を読んで何か気がついたことはありませんか? 特にパソコンで簡単なプログラムを組んだことがある人やシステムエンジニアプログラマーなどのIT関連の仕事や研究に携わっている方々のみなさま、何か気がつきませんか? 創世記1:1~2:3の文章から何か見えてきませんか? 何かに似ていませんか?
みなさんは気がついたでしょうか? 創世記1:1~1:31の文章には、ある「決まり」「法則」が組込まれています。神の創造は第一日から第六日まで、すべて「神は仰せられた」という言葉で始まり、その後に、神が仰せられた具体的な言葉が綴られています。そして、神が具体的に仰せられた言葉は、すべて、「命令」です。「命令」とは、すなわち【command】(コマンド・命令言語)です。

神は仰せられた。→「光があれ。」→すると光があった。
神は仰せられた。→「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。→そのようになった。
神は仰せられた。→「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。
海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
神は仰せられた。→「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」→そのようになった。
神は仰せられた。→「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。
神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。
海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

「光があれ。」
「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」
「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」
「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」
「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

神はすでに存在しているものに向かって命令しているのではありません。何も無い世界に向って命令しているのです。まだ何も無い、光が無い世界に向って「光があれ。」と命令しているのです。
まだ、大空が無い世界に向って「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」と命令しているのです。
まだ、かわいた所が無い世界に向って「天の下の水が一所に集まれ。
かわいた所が現れよ。」と命令しているのです。
まだ、植物や草や果樹が無い世界に向って「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」と命令しているのです。
まだ、光る物が無い世界に向って「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と命令しているのです。
まだ、生きものが居ない世界に向って「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」と命令しているのです。
まだ、人が居ない世界に向って「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命令しているのです。
先ほど、「特にパソコンで簡単なプログラムを組んだことがある人やシステムエンジニアプログラマーなどのIT関連に携わっている方々のみなさま、何か気がつきませんか?」と言いましたが、たとえば、スマホ用のゲームアプリ(アプリケーション)を作るとします。しかし、ゲームアプリを作る前に、必ず、OS(Operating System・オペレーティングシステム)の選択をします。OSにはMS-DOSWindowsMacOSiOSAndroidUNIXなどがありますが、アプリはOSの上に成り立っています。では、そのOSとは何か? というと、

【command】ソフトウェアやハードウェアの機能を実行するための命令。CUI環境のOS、プログラミング言語で使用される。目的のコマンドをキーボードから入力し、Enterキーを押すと、そのコマンドに対応した処理が行われる。
出典元:ASCII.jpデジタル用語辞典

OSとは、コマンド【command】という「命令言語」によるアプリケーション(WordやExcelなどの応用ソフトウェア)の要求(ジョブ)に従ってコンピュータ(CPU)に命令や指示を与えて全体のタスク(仕事)をコントロールするソフトウェアで、「基本ソフトウェア」と言われています。まあ、一言で言ってしまえば「アプリを動かすためのソフトウェア」とでもいうのでしょうか・・・。実は私もよく分かっていません。間違っていたらゴメンナサイ・・・(^^;
先にお話ししたように、創世記1:1~2:3は神が万物を創り動かすためのロジック(論理・設計図)であるソフトウェアが創られていく過程が描かれています。だから、神の創造は何も無い世界に向かって「光があれ。」と言葉を発して命令をします。神は命令することによって物理的な光のロジック(光の性質・法則・構造)を組み立てました。そして組み立てられた光のロジックの上にハードウェアとしての物理的な光(粒子・波動)が重ね合わされたので、「すると光があった。」と書かれています。つまり、秩序も法則も何も無い世界、空間に、万物を動かすアプリケーションに相当するソフトウェアと私たち人間が意識できる物質的な科学と物理といのちの世界を造りました。では、万物を動かすアプリケーションを組み立てるためのOSはというと、OSは「神の国」です。神の国とは「神の思考の世界」です。
私たち人間の体は鳥のように空を飛ぶことができません。いくら腕をパタパタ振っても引力の下にあっては永遠に空を飛ぶことはできません。それは、神は鳥だけに「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されたのであって、人間には「人が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されなかったからです。神は鳥だけに大空を飛ぶようにプログラムされたのであって、人間には大空を飛ぶようにはプログラムされませんでした。だから、人間が大空を飛ぶことはできません。しかし、もし神が「人が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されて人が大空を飛ぶようにプログラムされたなら、人は大空を飛ぶことができます。羽根が有ろうが無かろうが関係ありません。新約聖書使徒の働きの冒頭には、弟子たちの前でキリストが天に昇って行く様子が描かれています。

使徒の働き1:1~12
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

再臨の時はクリスチャンは天に上げられて空中でイエス・キリストに集います。再臨の時に急にクリスチャンの背中に羽根が生えてパタパタしながら空中に上がるのではありません。今の体のまま空中に上がります。神は無限の法則(OS)の中から必要な法則を見つけ出してきて命令(プログラム)します。神の言葉は「生きた力」です。神が言葉を発して命令すれば(プログラムすれば)、すべてが命令(プログラム)通りに動きます。私のような素人には分かりませんが、OSの仕組み、OSとアプリケーションの関係、さらにソフトウェアとハードウェアの関係を理解しているIT関連の仕事や研究をされている方々なら、神がどのような工程で万物のソフトウェアとハードウェアを創られたのか? あるいは人工知能ロボット(AI)を研究されている方々なら目に見えない人間の思考形態がどのような構造になっているのか? 自由意志とは何なのか? 少しは見えてくるかもしれません。
ですから、たとえば神は創造第五日に「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されました。

1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。

人間の感覚で考えると、まず、神は鳥のハードウェアを造り、完成された鳥のハードウェアに神が「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令されて、そこで初めて鳥が神の命令通りにパタパタと羽根を羽ばたいて空に飛んで行ったと解釈されます。しかし、ここでは「いのち(命)のソフトウェア」が創られたのであって、「物体」としての鳥が創られたのではありません。神が「鳥が地の上、天の大空を飛べ。」と命令することによって鳥の魂が自らの意思で大空を飛ぶためのロジックが創られました。ロジックとは、すなわち「論理」です。「理屈」です。「いのちのソフトウェア」です。いのちのソフトウェアとは、生き物の「習性・本能・行動原理」です。天地創造を詳細に記したヨブ記には、神がプログラムされた動物の行動原理である「習性・本能」について語っています。たとえばヨブ記38:39からは色々な動物の行動について語られていて、ヨブ記39:27~30では鷲や鷹などの猛禽類の習性・本能・行動原理について次のように書かれています。

ヨブ記39:26~30
39:26 あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。
39:27 あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高い所に作るのは。
39:28 それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。
39:29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。
39:30 そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。

鷹も秋になると越冬のために暖かい南の方へと飛んで行きます。鷲は岩山の高い所に巣を作り、上空を旋回しながら地上の獲物を狙います。人間の目の視細胞20万個に対して鷲の目の視細胞は150万個で、1500メートル先の獲物を識別することができるそうです。凄いですね。ハゲワシは死んだ動物の肉を餌とします。すべての生き物の習性・本能・行動原理は、天地創造で神が定められたいのちのソフトウェアです。いのちのソフトウェアに対していのちのハードウェアである細胞から成る物質的な生き物の体は創世記2:19で神が造られました。人間も同様に、前半の創世記1:26~27で人の魂が創られ、後半の創世記2:7で人の体が造られました。だから神の天地創造は前半の創世記1:1~2:3と後半の創世記2:4~2:25に分けられています。ですから先に申し上げた創世記1:28~29の記述は

1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

人間の魂にプログラムされた習性・本能・行動原理です。人は海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配する能力を持っています。しかし人は他の生き物と同じように食物に依存して生きています。何かを食べてなければ死んでしまいます。 また、人間は男と女に性別され、年頃になればお互い意識するようになり、やがて恋愛から結婚して子どもが生まれて新しい家族が増えて家庭が営われます。これら一連の流れは創造第六日に神が人を男と女の魂を創造され、男と女の魂に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命令して男と女の本能を魂にプログラムした結果の現れです。
私は小さい頃、飛行機のパイロットに憧れました。空を飛ぶことの憧れが強かったので、よく、鳥のように自分の体だけで空中を飛ぶ夢を見ました。今でも空を飛ぶ夢を見ます。両手をVの字に広げてドキドキしながら都心の高層ビルの屋上から身を投げ出すと体が風に乗ってフワ~~~と浮いて行き上空300メートル位のところを飛んで行きます。手のひらを開いてグルグル回すと前に進んで行くのです。下では人々が見上げて「おいおい、見ろよ、人が飛んでいるよ!」と騒いでいます。夢の中でも夢だなんて分かりませんから空を飛ぶリアリティを感じながら飛んでいます。やがて夢から目が覚めると「なんだ、夢だったのか」と現実に戻ります。来たるべき「新しい天と新しい地」では、人間が空を飛べると勝手に思い込んでいます。先にお話ししましたが、ヨハネの黙示録には神が「新しい天と新しい地を創る」ことが書かれています。

ヨハネの黙示録21:1
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

「以前の天と以前の地」とは、私たちが生きているこの世界です。創世記1:1で「 初めに、神が天と地を創造した。」と書かれている「天と地」です。そして、天は万物の「ソフトウェアの世界」です。地は万物の「ハードウェアの世界」です。ですからそれを黙示録21:1に当てはめると

また私は、新しいソフトウェアと新しいハードウェアとを見た。以前のソフトウェアと、以前のハードウェアは過ぎ去り、もはや海もない。

と訳すことができます。神が創られる「新しい天と新しい地」は「神を信じる者の住まいとする新しい万物のソフトウェアとハードウェアを創る」という意味です。今、私たちが生きているこの世界は創世記1:1に書かれている「古い天と古い地」です。古いソフトウェアと古いハードウェアの世界です。天と地は「神の思考によって創られるアプリケーション(応用ソフトウェア)とハードウェアの世界」です。
スマホのアプリには業務、ゲーム、SNS、お絵かき、写真、音楽など、様々なものがあります。それぞれのアプリはそれぞれの「世界」を作っています。一つのOSから何でもできてしまいます。あらゆる「世界」(アプリケーション)が作れます。そのように、神は御自身の無限(無数)の思考の世界(OS)の中から必要な法則【command】を選んで万物のアプリケーションを作って行きます。ところが創世記1:1で神が作られた万物のアプリケーションにサタンというウィルスが人間の罪によって侵入してきました。だから「地」は呪われました。本来、神が創られた世界に自然災害など存在しません。しかしサタンというウィルスが入ってきたので、万物のハードウェアが異常な動作をします。地震や台風などの自然災害で人類は苦しむことになります。サタンの手に渡されたヨブの七人の息子と三人の娘が大風(竜巻?)で倒れた家の下敷きになって死んだように。サタンの手に渡されたヨブが全身の腫物で苦しんだように。あの~~~・・・なかには「コンピュータだのソフトだのハードだの、こいつ頭がおかしいんじゃねえ? 聖書となんの関係があるんだ?」と思われる方も居られるでしょう。すでに繰り返しお話ししていますが、人間は神によって創られました。そして、人が罪に陥った後に神は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(創世記3:22)と仰せられたので、人は神と同等になりました。神と同じ思考形態を有する存在となりました。だから、人間の思考形態は神の思考形態と同じであり、人間は、本能的に、神と同じことをします。人間が物や社会システムを作る工程は、神の天地創造の工程を踏襲します。聖書の神を信じない人々は「神を信じるなんてバカじゃねえか。居ないものを信じてどうするのよ。こんなの信じるやつの気が知れないよな」とバカにしながら、自分たちも神と同じことをやっていることに気がつきません。自分たちが神の手のひらの上で踊らされていることが分りません。

次回に続く
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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
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天地創造―10(万物を動かすコンピュータ)

天地創造―9からの続きです。

では、なぜ、神の天地創造に人の創造、動物の創造の記述が二度も出てくるのでしょうか?

最初に結論を申し上げます。
創世記の天地創造に人の創造、動物の創造が二度記述されているのは、1章では万物をコントロールする「ソフトウェア」の創造が書かれています。そして2章では人と動物の体である「ハードウェア」の創造が書かれています。万物は常にソフトウェアとハードウェアがセットになって活動しています。人間で言えば人の目に見えない手で触ることができない人の「魂」がソフトウェアで、人の目に見えて手で触ることのできる「肉体」がハードウェアです。だから創世記2章7節に

2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。「土地のちり」とは目に見える「物質」です。神は「土地のちり」という物質から「人を形造られ」ました。「人を形造る」とは、文字通り「人の体」を造られました。土地のちりから人の遺伝子、細胞をはじめ、目に見える人間の体を造られました。魂の創造(創世記1:26~29)に関しては後でお話しします。

前回、この疑問を解くヒントが創世記3章22節に書かれています、とお話ししました。そして

創世記3:22
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

人は神が禁じた善悪の知識の木の実を食べた結果、人が神のようになりました。

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」

「人はわれわれのひとりのようになり」とは「人は神と同じ思考形態を有する存在になった」という意味です。ですから人間は生まれつき、本能的に、神と同じことをします。人間の行動原理は神の行動原理に由来します。人間の行動原理から神の行動原理を知ることができます。

と書きました。
科学が進歩した現代では、人類は創世記1章、2章に書かれている神の天地創造と同じことをやっています。
みなさんは近年「AI」という言葉をよく耳にすると思います。AI(artificial intelligence)とは「人工知能」という意味で、ロボットなどに組込まれています。一部の機能に特化されていた産業用ロボットの技術がさらに進んで人間の知能をコンピュータ化したAIをロボットに搭載してロボット自らが状況を判断して作業を行います。ようするに「人間のコピー」を人間が作っています。おもしろいですね。神が

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

と仰せられて人間を創ったように、人間も神を真似て「さあ、AIロボットを作ろう。われわれのかたちとして、われわれににせて。AIロボットに仕事をさせよう」と言って人類の英知を結集してAIロボットの研究をしています。そして、ロボットはソフトウェアとハードウェアから成り立っています。

神の天地創造は、コンピュータが組込まれたロボットにたとえることができます。ロボットは、コンピュータの命令によって動きます。コンピュータには、あらかじめ、ロボットに命令を出すための「ソフトウェア」が組込まれています。ソフトウェアというのは、ロボットに仕事をさせるための命令や手順をプログラムとしてまとめたもので、いわゆる「物体」ではありません。目に見えない「人間の思考(命令・手順・定義)」を電気(デジタル信号)よって視覚化、物体化されたプログラムをハードウェア(物体)に送ってロボットは動作します。ですからロボットは目に見えない「人間の思考」が記録されたコンピュータのソフトウェアによる命令や手順に従って動作します。そのように、神が創られた万物も、ハードウェアとソフトウェアから成り立っています。人間の目に見える、人間の科学や物理で測定したり観測したり計算したりできる世界が「ハードウェア」です。人間の科学や物理は神が天地創造で創られた「ハードウェアの世界」を研究しています。ハードウェアの研究によって物質の構造や物質固有の運動、物質の性質を理解します。ですから「水は水素と酸素の化合物である。水の沸点は1気圧の下で100℃である。水の融点は1気圧の下で0℃である」というのは、万物のハードウェアの世界です。しかし繰り返し述べて来たように、「では、なぜ、水素と酸素に熱エネルギーを加えると水という物質に変化するのか? なぜ、水は100℃で沸騰するのか? なぜ、水は0℃で凍るのか?」という、万物の根本的な疑問に人間の科学は答えられません。なぜ、そのような物質が存在し、なぜ、そのような性質を持っているのかが分かりません。万物の本質の世界が分かりません。
物質を含めた万物の本質は「ソフトウェア」の世界です。つまり、万物は神の命令、神の指示、神の思考に従って活動しています。ロボットがコンピュータのソフトウェアのプログラムに書かれている命令や手順や定義に従って動作するように、万物は神の命令、神の指示、すなわち神の言葉に従って活動しています。その神の命令、神の手順、神の定義が、ヨブ記38章33節に記されている「天の法令」です。霊的な神の世界です。人間の五感では分らない世界です。だから水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されるのは、神が天上で天の法令としてそのように定めたから地上の物質の世界で水素と酸素を化合すると水になります。天上で神が水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されるようにプログラミングして天の法令として定めたので、地上の人間の科学の世界で水素と酸素に熱エネルギーを加えると水が生成されます。物質の運動や物質の固有の性質は天地創造で神が定められた「天の法令」に従って活動しています。
私たち人間が認識している科学や物理の世界は神が創られたハードウェアの世界を研究しているにすぎません。ですから物質や法則の構造や仕組みや性質を解明することはできても、個々の物質や法則などの万物がどのようにして創られて、なぜ、そのような構造や性質を持っているのかが分かりません。物質や法則の本質の世界が分かりません。ロボットを分解して一つ一つのパーツを研究すればロボットの構造や仕組みは解明できます。しかし、「では、なぜ、このロボットは自らこのような動作をするのか? なぜ、自らこのように反応するのか?」というのは、ロボットに組み込まれているコンピュータのソフトウェアに書かれている動作原理のプログラムを解析しない限り知ることは出来ません。

ヨブ記38:33
38:33 あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

万物は天地創造で神が定められた「天の法令」に従って活動しています。神の国の「天の法令」が万物のソフトウェアで、地上の世界の「法則」が万物のハードウェアに相当します。ですから聖書は人間の世界の物質や法則の原因、起源は、神の言葉により神が定めた「天の法令」にあると教えています。「神の言葉」は「神の思考」です。その「神の思考(命令・手順・定義)」が万物のソフトウェアとして「天の法令」に定められています。だから

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル人への手紙11章3節)

と書かれています。 見えるもの(ハードウェア)は見えないもの(ソフトウェア)によって活動しています。見えるもの(ハードウェア)だけを研究しても、見えるもの(ハードウェア)の本質を解明することはできません。
人間は神によって創られました。そして、人が罪に陥った後に、神が「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と仰せられましたから、人間は、本能的に、神と同じことをします。人間が物や社会システムを作る工程は、神の天地創造の工程を踏襲します。神が目に見えない御自身の思考であるソフトウェア(天の法令)によってハードウェア(物質と法則の万物の世界)を動かしているように、人間も神と同じようにソフトウェアとハードウェアという概念によるコンピュータによって今日のIT(Information Technology)社会を作りました。

次回に続く
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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。
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天地創造―9(創世記1章、2章の疑問)

天地創造―8からの続きです。

創世記1章は「宗教・哲学」が書かれているのではありません。創世記1章は、創世記1章1節で神が創られた「地」なる場所、領域、空間に、物理、科学、いのちの世界を創っていく過程を客観的に記した記録、文書です。

創世記1:1~2:25
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
1:25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

創世記1章、2章を読んだ方が必ず思うことは

「なぜ、2度も、人の創造、生き物の創造の記事が書いてあるのか?」

という疑問です。創世記2:1~3に
天と地とそのすべての万象が完成され」て、
「なさっていたわざの完成を告げられ」て、
「なさっていたすべてのわざを休まれ」て、
「第七日目を祝福し、この日を聖であるとされ」て、
「すべての創造のわざを休まれた」と記されています。つまり、この時点で神の創造の業(わざ)は完成されて終わりました。ところが、続いて創世記2:4から
「地には、まだ一本の野の灌木もなく」
「まだ一本の野の草も芽を出していなかった」
と記されて、その理由は
「それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」
と記されて、さらに男と女の創造、動物の創造が書かれています。だから「1章で神は宇宙、地球、すべての生き物、そして人間も含めた万物のすべてを完成されて休まれたのに、なぜ、再び、2章に人間と生き物を創られた記述が出てくるのか?」という矛盾とも思える疑問です。この矛盾、疑問を解消するために、先に述べたように雨後の筍のように様々な神学、教理が生まれて乱立しているのがキリスト教界の現状です。この矛盾とも思えるような疑問に答えるヒントが、創世記3章22節に書かれています。

創世記3:22
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

人は神が禁じた善悪の知識の木の実を食べた結果、人が神のようになりました。

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」 

「人はわれわれのひとりのようになり」とは「人は神と同じ思考形態を有する存在になった」という意味です。ですから人間は生まれつき本能的に神と同じことをします。人間の行動原理は神の行動原理に由来します。人間の行動原理から神の行動原理を知ることができます。「善悪を知るようになった。」については後でお話しします。

次回に続く

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本文の聖書のことばは「聖書・新改訳©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会」から引用しています。

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